金曜日の夜

文と絵:小林賢恵

駅前にある小さな居酒屋。
暖簾を出した、くもりガラスの引き戸の前に立つと、
やわらかな黄色の光の中に、人の影が映る。
戸を引くと、中から酒と料理のにおいとにぎやかな声が、
ぶわっと波のようにあふれ出す。

「いらっしゃい〜」威勢のいい声はアルバイトの若者。
カウンターの席に、こちらを見る彼女の姿を見つける。
彼女に手を挙げてから、店員に目線を送り、
彼女の横の空いた、丸い椅子に座る。

「おつかれ〜。思ったより早かったね」
「うん、駅で急行に間に合った」
「よかったね。あ、何飲む?」
「あ〜、うん、やっぱりビールかな」
「オッケー。すみませ〜ん、生ひとつ。あとレモンサワーおかわりください〜。おなかは減ってる? なんか頼みなよ」
「あ〜、うん、なにしよ、なに頼んだの?」
「板わさとポテサラと、まだ来てないけれど厚揚げの煮物」
「う〜ん、じゃあ唐揚げと、この海鮮チヂミ?」
「いいね。あ、わたし、アジフライ食べたい。すみませ〜ん! 注文いいですかぁ? あ、ビールきた。とりあえず乾杯ね。おつかれ〜」
「おつかれ〜、ふぅ、うまい」
「うまい、うまい。ポテサラもおいしいよ」
「うん、ビールしみるわ。あ〜つかれた」
「金曜日だもんね。こっちもつかれた〜。駆け込みの仕事多くてさ

「おつかれ。あのさ、今日さ、新しいプロジェクトの打ち合わせが外であったのね」
「うん」
「でさ、向かっている途中で名刺入れ見たらさ、残り3枚でさ。初めての顔合わせだから、やべ〜ってなって」
「うん。あ、唐揚げきた。アツアツだぁ

「で、焦って、なんとか相手が3人以内だったらいいなって」
「うん、あふ、おいしい」
「ほんと? ん、うまい。でさ、相手が、出てきたのが2人だったの」
「よかったじゃん、チヂミもおいしいね」
「そう、でね、セーフって感じで、ほっとして名刺交換していたら、会議室のドアが開いて、ひとり遅刻してきた。今回のプロジェクトのディレクターのひとで、ピンクのシャツ着て、短パンだった。ヒゲも剃っていなくて髪もぼさぼさで

「あはは。何、それ。自由だね〜。あ、アジフライ、ソースかけていい?

「うん。で、“すみません、今日ミーティングなの忘れていて…、こんな恰好で…。あ、あと名刺も切れているんですよ”つってさ」
「わははは、自由だ〜」
「で、オレが最後の1枚を渡したら、“すみません、あとでメールしますね”って、にこやかに笑って、名刺をポケットに入れて、で、ミーティングが始まったわけさ」
「うん」
「なんかさ、オレはさ、ずっと電車の中から焦っていたわけさ。名刺がないことを。どっかでスピード名刺みたいの作れないかと考えたり」
「ああ、うん」
「だけど、相手は名刺がなくても気にしてなくて、なんなら、こっちのスタッフも誰も気にしてなくて、よろしく、よろしくって、普通にミーティングが始まってさ、オレは小さいなぁって…ちょっと落ち込んだ」
「ん〜? そうなの?」
「そういうことばっか気にして小さい」
「そんなことなくない? じゃあ、名刺を持たない、ずぼらな人になりたいの?」
「いや、そうじゃないんだけどさ。名刺はなくても、本質的なことは、まったく関係ないよなって。でも、オレはまず、そこばっかり気にしてた」
「ちゃんとしてるってことで、いいじゃん。初対面なんだし、社会人としては、まっとうでしょ? そういうルールの中で生きているんだもん」
「あ〜、そうなんだけどさ、ルールが先に立っているというかさ…。でね、そのディレクターの人から、会社に帰ったら、速攻メールきてたの。“今回のプロジェクト、ぜひ成功させたいですね”ってさ。フォローばっちりな感じ。かっこよくね? なんか、勝てね〜って思った」
「う〜ん、勝たなくたっていいじゃん。あのさ、キミはすぐそうやって、勝ち負けで考えるし、すぐにそうやって影響受ける。いいやん、そういうさ、スマートで、できる感じの人と一緒に仕事できるってことで。でも、それ、ほんと勝ち負け関係ないし。恰好だけ真似したって違うでしょ? キミはキミだよ

「まぁ、そうなんだけれどさぁ、なんかさ、なんかなぁ〜

「は〜い、とりあえず飲も。ビール? すみません〜、生ひとつ〜。あと、なんか食べる?

「ふぅ」
「あはは、さ、飲むよ。金曜日だしね。1週間おつかれさまでした

「ははは、だな。おつかれ〜」

ビールジョッキとチューハイグラスがぶつかる音。
二度目の乾杯。
カウンターの上には料理ののった小皿と割り箸。
酒と食べ物のにおいとざわめき。
威勢のいいアルバイトの若者の声。
彼と彼女の金曜日の夜。