それも個性ということで。

文:アジコ

どこかに長く暮らしたことがない。

幼稚園から高校を卒業するまでの14年間は母の田舎で暮らしていた。14年は十分に長い年月なのだけれど、もしかすると本当は暮らしていなかったんじゃないかと思えるほど、その時期の記憶が断片的で曖昧だ。思い出すのはいつも同じシーン、同じ言葉。もう随分と前にその家は更地になり、わたしの記憶と同じように消えてしまった。そして自然とそこに行く理由もなくなった。

「何年間分の記憶がね、ないんですよ」

こんな話をすると驚かれる。「脳にね、電気をパチッと流す治療ってのがあって。病院の先生には徐々に記憶は戻るよって言われたけれど、結局戻らないまんまなのよね」続けてこんなふうに言うと更に驚かれる。わたしがもし誰かにこんな話をされたとしたら、きっとこう思う。「あなたの話が嘘だとは思わないけれど、その感覚は、わたしにはわからない」

今でこそSF映画みたいな体験をしたよなんて笑って言えるけれど、何年間も記憶の空白部分が怖くてたまらなかった。思い出そうとしてもわからないのがとにかく怖かった。そんなある日「失くした記憶は必要のないものだったのかもしれないよ」と言う人がいた。この言葉が、かけられた呪いをとくような魔法の言葉となり、わたしの怖くてたまらない毎日は終わった。

失った記憶と長くいたはずのところ、これらはわたしに必要なのだろうか。この20年ほどで引っ越した回数を数えてみたら、なんと10回。これはなかなかのハイペースではないか。きっとわたしは、どこかに根を張り暮らしたいと思わないで生きてきたんだろう。失うことは悪いことばかりではないんだ。

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今は広い空に白い雲が浮かび、豊かな木々の緑とのコントラストが美しい。そんなステキなところで暮らしている。今日も車を走らせながら聴くのはフリッパーズ・ギターだ。フリッパーズ・ギターを聴くとまた東京に行きたいなと思う。はじめて彼らの音楽にふれたときから今も変わることなく、わたしにとってフリッパーズ・ギターはオシャレで都会的な東京そのものなんだ。

わたしとよく似た不器用な動きと埃っぽいエンジン音に、洗練されたフレンズアゲインが重なる。いつまでこの根無し草生活は続くのか。美しい景色の中、次の場所に思いを馳せる。