美術館通り

文と絵:小林賢恵

バス通りから1本入って最初の交差点の角に、美術館がある。
道路側を口にしたコの字の形に、石造りの建物が建つ。
中は緑の芝生で、その芝生を四つに区切るように、
コンクリートの歩道が十字に敷かれ、建物と建物をつなげている。
入り口となる正面の建物の前には噴水。
春から秋にかけては、勢いよく水を吐いていたが、
冬の訪れとともに水は止められ、石の水盆の中には枯葉がたまり、
風が吹くとカサカサと音を立ながら、小さく踊っている。

今日は休館日。
庭は開放されているが、建物の入り口は閉まっている。
休館日でも、中では職員が働いているはずだが、
人の気配を感じない。
庭には赤ちゃんや幼児を連れた、
数人の女性グループが楽しそうにおしゃべりをしている。

静かに冬の光が緑の芝生に降り注ぐ。
建物の前に置かれた、木製のベンチに女性がひとり座っている。
前かがみの姿勢で、頬杖をつき前を見ている。
ストレートボブの髪が頬に落ち、その表情を隠す。

美術館の道路を挟んだ向いには肉屋が店を構える。
バス通り側が店の入り口となり、
美術館に面した道路側は、配達用の車の駐車場になっている。
肉屋も今日は定休日。
駐車場のシャッターは開いており、
駐車場には2台の車がきっちり収まっている。
掃除か洗車をしたあとらしく、
ゆるいスロープになったコンクリートの地面が水で濡れている。

並んだ車の前、ちょうどシャッターのレールの内側に、
大きめの四角い水槽が置いてある。
洗われたばかりなのか、ガラスの側面にたくさんの水滴つき、
日射しを受けてキラキラと光っている。
中には亀が二匹。
光りを全身で浴びて、日向ぼっこをしている。
ときどき、泳ぐようにその脚を動かしている。

美術館の中庭のベンチに座っている女性が顔を上げる。
子ども連れの女性たちは、どこかへ行ってしまったようで、
彼女ひとりが広い中庭の中、冬の光の中にいる。

やわらかな光のもとを見ようと、
彼女は目の前に手のひらをかざす。
長いまつげに光りの輪ができる。
左手の薬指に今はない銀色の指輪を見る。

ため息とともに手をおろし、コートの襟元を合わせ、
彼女は立ち上がり歩き出す。
もう考えない。この一年の間、さんざん考えてきたのだから。

横断歩道を渡ったとき、肉屋の駐車場の水槽が目に止まる。
水槽の中には、石のような甲羅を持つ亀が二匹。
彼女は水槽に歩み寄り、亀を見下ろし見つめる。

そして彼女は白い手を亀に伸ばす。
一匹の亀をすくい上げる。水槽の水が彼女の手を濡らす。
ばたばたと脚を動かす亀を彼女は見つめる。

彼女は亀を持ったまま、信号が点滅する横断歩道を駆け足で渡り、
そのまま美術館の庭へ駆けていく。
十字のコンクリートの歩道の真ん中に亀を置く。
そして、また踵を返し、横断歩道を駆け抜け、
バス通りまで早足で歩く。

バス停にはちょうど駅に行くバスが停車中で、
彼女はそのバスに乗り込む。

弾む息。
こんなに走ったのは何年ぶりだろうか。
いちばん後ろの席に座り、息を整える。
亀をつかんだ右手はまだ濡れている。
バッグからハンカチを取りだしぬぐう。
そして、大きく跳ね上がろうとする心臓を押さえつけるように、
コートの上から、胸に手を当てる。
後ろを振り返ると、窓ガラス越しに景色が遠ざかっていく。
美術館はもちろん見えない。

バスは駅に着き、彼女は階段を上り、改札を抜け、
そして、滑り込んできた電車に乗る。

亀を盗んだ。

彼女はひとつ罪を残して、この街を去っていく。

目を閉じ、ゆっくり歩く亀の姿を思い浮かべている。
そして、水槽に残されたもう一匹の亀のことを思い出す。

彼女の目から涙があふれる。
他の乗客に見られないように、
背を向け窓の外をにらむように見る。
それでも、涙は止まらない。
この一年、自分のことだけに泣いてきた彼女は、
いま、亀のために泣いている。

彼女は罪を背負いたかった。
わかりやすい傷をひとつ持ちたかった。
あの街で暮らした時間をなかったものにしないために。

亀はコンクリートの歩道をゆっくり歩いていき、
水のない噴水に辿り着く。
亀が歩いたあとの濡れた染みを、冬の太陽が消していく。

斜めから差し込む午後の光は穏やかで、そして暖かい。
亀はここで少し休もうと思う。
枯葉の中で、4本の脚を甲羅の中にしまう。

学校帰りの小学生たちが、
芝生を駆け込んでくる。
叫ぶようにはしゃぎ、笑う声を聞きながら、亀は眠りに入る。

まどろみの中で、亀は悲しい目をしていた彼女を思い出している。