洗濯日和

文と絵:小林賢恵

リビングの窓は南向き。
日射しが入ってきて、フローリングの床を明るく照らし、
そしてレースのカーテンが影を作っている。
僕はキッチンカウンターのコーヒーメーカーのスイッチを入れたあと、
カーテンを引き、窓を開けてテラスに出る。

履き古したビーサンを裸足の指先につっかける。
天気はいいが、風が少し冷たい。
手にはプラスチック製の洗濯カゴ。
中には洗濯し脱水したばかりの衣類やタオルなどが入っている。
一週間分なので、それなりの量がある。
脱水機から取りだしたばかりで、
ぐるぐるとねれじれているシャツを一枚取りだし、
肩のあたりと両手で持ち、大きく上から下へと振り下ろす。
パンッ、パンッと小気味のいい音がして、
洗剤の香りが広がる。
シャツが形を取り戻し、シワが消える。
今度は肩を左右にひっぱり、
肩から袖、前立ての部分のシワもひっぱってのばす。

タオルや下着も、そうやってシワをのばしてから、
張ったロープに、洗濯ばさみで干していく。
風に揺れるシャツやタオル。その向こうに冬の青空。
リビングに戻り、洗濯カゴを置いたあと、
窓を開けたままフローリングの床に寝転ぶ。
冬の風がカーテンを揺らす。
風と一緒に洗剤の香りが運ばれてくる。
キッチンからはコーヒーの香り。
清らかな空気と幸福のにおい。
目をつぶる。まぶたに光を感じる。

大学に入り、ひとり暮らしをするまで、洗濯をしたことがなかった。
夜、バスルームにある洗濯カゴに着た服を突っ込んでおけば、
学校から帰るとそれらは畳まれてソファーの上に置いてあり、
母の「ちゃんと片付けなさいよ」という言葉とセットで、
自分の部屋に持ち帰るだけだった。
ひとり暮らしのアパートの部屋には洗濯機置き場があったけれど、
洗濯機は買わなかった。洗濯機が結構高い金額であることも初めて知った。

コインランドリーを使うのも初めてだったけれど、
全自動で乾燥までやってくれるし、とくに難しくはなかった。
だけれど、通い始めて2か月くらいで、急に近所の店が閉店してしまった。
新しいコインランドリーを探さないと思いつつも、3日経ち、1週間経ち、2週間過ぎた。
部屋の片隅に洗濯すべき服がたまっていく。

学校の昼休みに「コインランドリーがつぶれちゃって」という話をしたら、同じ駅を利用している女のコが「うちの洗濯機使う?」と言ってくれた。

その週末の土曜日、彼女のアパートに洗濯物を大きなスポーツバッグに詰めて出かけた。
休日の彼女は、ブルーのパーカに花柄のショートパンツ。化粧気のない顔、髪は無造作にポニーテールにしていて、いつもより少し幼く見えた。

「洗濯機はこっち」とバスルームに案内される。
「使い方わかる? 洗剤はこれ使ってね」
「うちのは乾燥機がないから、ベランダに干してね。今日は天気がいいから、たぶん2、3時間で乾くよ」
「うん」
返事をすると、彼女はドアを開けたまま出ていった。
僕は、なんだかわからないけれど、急に緊張してきて、いや、それよりもずうずうしいし、下着はまずくないかなど、今さらながらのことを思った。

ふぅ。
大きく深呼吸。

決意というか、あきらめに近い気持ちで、洗濯機のふたを開ける。
そして、バッグにくしゃくしゃに詰められていた衣類やタオルを次々に入れていく。
蛇口をひねると水が勢いよく流れ込む。棚にある液体の洗剤を入れて、タイマーをかける。あとは脱水まで洗濯機がやってくれるはず。

ふぅ。
すべての作業が終わり、もう一度ため息とも深呼吸ともつかない、息を吐き出す。
洗面の棚に並ぶ、僕の部屋には決してない、いろいろな化粧品やスタイリング剤を眺める。
狭い洗面所で僕は所在なく立っていて、洗濯機の音だけを聴いている。

ドアの向こうから「コーヒー飲む?」という彼女の声。
僕は「うん」と、返事をして、コーヒーの香りと彼女の声がするほうへ行く。
彼女は廊下にある小さなキッチンに立ち、やかんのお湯をペーパーフィルターの中のコーヒーに注いでいた。
湯気の出ているマグを僕に渡し、ドアを開ける。
ベッドと勉強用のデスク、そして本棚。
広さは僕の部屋とそう変わらないだろう。

椅子はひとつしかなく、「ベッドに座っていいよ」と言われ、
水色とピンク色のストライプのベッドカバーで覆われたベッドの端に、マグを持ったまま座る。
開け放った窓の向こうに小さなベランダがあり、やさしくカーテンを揺らす。
「天気いいね」
「うん」
「朝ごはん食べた?」
「うん」
「なんか用あった? ごめんね」
「いや、夕方からバイトだけれど、それまではヘーキ」

会話は途切れ途切れでなかなか続かない。

そして洗濯終了の音が聞こえる。
「終わったみたい」
彼女の声に僕はベッドから腰を上げ、マグをデスクに置いて部屋を出る。

ふぅ。
また息を吐く。
脱水されたぐるぐるの服を取りだしていると、
彼女がいつのまにかやってきて
「これ使っていいよ」とプラスチック製のカゴを差し出す。
「ありがとう」
礼を言って、カゴの中に洗濯物を投げ込む。

ふたりで狭い廊下を戻る。
僕は両手でカゴを抱えて、彼女の後をついていく。
シャッと音を立て、彼女はレースのカーテンを開け、
鍵を開けて、ガラス戸をスライドさせる。
実家にもあったようなビニールのサンダルがひと組。

「ここに干していいよ。でも、全部干しきれるかな。シャツはハンガー使って」
「ありがとう」

気恥ずかしい思いは消えず、とりあえず、さっさっと干してしまおうと、洗濯物をカゴから取り出しては、洗濯ばさみで留めていく。

「だめだよ。ちゃんとシワをのばさないと」と彼女の声。
「え? あ?」
彼女は、ぼけっと突っ立っている僕の手からTシャツを取り上げ、
裾のほうを両手で持ち、上から下へ大きく降る。
パンッパンッという大きな音。

「ほら。ちゃんとシワをのばしておけば、アイロンなんてかけなくてすむんだよ」
彼女が干したTシャツが風にふわりと揺れる。
先に干したものも、彼女がシワをのばして干し直していく。
僕は、慌てて、彼女に手を出されないように、カゴの中から残りの洗濯した衣類を取りだし、彼女と同じように大きく振って、シワをのばして干す。

ふぅ。
すべて干し終わったとき、深く息を吐いた。
「おつかれ」彼女が笑った。
ふたり部屋に戻って、ふたりでベッドに腰かけた。
ふたりで風に揺れる洗濯物を見ている。
開け放った窓から、風が入り、洗剤の香りを運んでくる。

「なんか、空気まで清らかって感じがするよね」
「うん。そうだね」
ふたりで、しばらく洗濯物がたなびく空を眺め、
心地良い風とにおいを感じていた。

僕は週末ごとに彼女の部屋に通い、洗濯させてもらった、
会話はぎこちなくなくなり、そして僕たちは恋人同士になった。
でも、学生時代があと1年で終わる頃に、彼女は、故郷の役所に就職を決め、
「春になったら、生まれ育った町に戻ろうと思う」と言った。

僕たちは情熱ではなく、あまりにもさらりとつきあってしまったので、
自分と相手を傷つけないように淡々と過ごしてきた。
小さなケンカや気まずいときは、もちろんあったけれど。
お互いの好きという気持ちが、「紺色が好き」「ネコが好き」「中華丼が好き」くらいの感じだったのかもしれない。
いや、本当に好きだし、大事だったし、その気持ちに嘘はないのだけれど、情熱はなかった。
僕らは今まで嘘や駆け引きがなかったから、為す術を知らない。
だから、僕は彼女の決断に対して「うん」としか答えなかった。
「この街で一緒に暮らそう」と引き留めるのも違う気がしたし、ましてや彼女の故郷に僕が行くことも考えられなかった。
すーっと近づいたふたつの線は、またすーっと離れていく。
離れるのも自然なことだったのかもしれない。

「洗濯機持っていく?」
段ボールに引っ越しの荷物を詰める彼女が言った。
「いや、いいよ。ボーナス出たら買うよ」
「だね。これ乾燥機ないしね」
「う〜ん、外に干すのが好きだから、乾燥機はなくてもいいけれど」
「今、そういうタイプ探すほうが難しくない?」

僕たちは残りの日々を、変わらずに過ごし「元気でね」と手を振って別れた。
涙は最後まで出なかった。
ただ、寂しかった。

僕はまたコインランドリーで洗濯するようになり、慌ただしく会社勤めが始まり、最初のボーナスが出たけれど、洗濯機を買うことはなかった。
そして3年経ち、学生時代に住んでいたアパートから、今のテラスのあるマンションに引っ越しをした。
そして洗濯機を買った。
家電販売店の店員に不思議がられながらも、乾燥機のないタイプを探して買った。

天気の良い土曜日の午前中が僕の洗濯タイムだ。
洗濯をして、干す前にコーヒーを淹れる。
そして、テラスに出て、シワをのばしながら干していく。
すべての洗濯物を干し終わると、僕は部屋に戻り床に座ったり寝転んで、洗剤の香りのする風を感じる。
清潔で少し冷たい風と、部屋の中の暖かくやわらかな空気、コーヒーの香りが
、水彩の絵の具が水に溶けていくように、ゆっくりと混じっていくような気がする。

僕は寝転んだまま、目を開けて、風にはためく洗濯物の向こうにある青空を見る。

青空の続く向こうに彼女の住む町がある。