料理歳時記

文:曽根雅典[三軒茶屋nicolas] 絵:佐々木裕

さくらんぼ(桜桃)

「蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、

桜桃といえば太宰治です。太宰の忌日・桜桃忌は季語にもなっていて、桜桃、さくらんぼと同じく夏の季語。桜が散ると、さて、さくらんぼの季節がくるな、と思います。

さくらんぼといえば山形。訪れたことはまだありませんが、毎年山形出身の知人からさくらんぼをいただきます。さくらんぼを思い出すとき、その味よりも、口の中に残る種の舌ざわりを真っ先に思い出します。昭和の頃の喫茶店、クリームソーダ、恋人の前で彼女は、恥ずかしくてさくらんぼの種を出すことができずに困っている。小さな恋のものがたりのチッチとサリーのような、そんな情景を思い出します。

佐藤錦、紅秀峰など、さくらんぼの品種を意識するようになったのはここ最近のような気がします。さくらんぼはさくらんぼです。品種でわけるより、桜桃とさくらんぼ、のほうがまったく別のもののような気もします。

さくらんぼを賽の目に切ってかんずりと和え、刻んだクレソンにレモンを搾ったものと一緒に、鯒の昆布締めに添えます。今は夏でもおいしい養殖のひらめがあるのでひらめでもいいです。雪国の初夏をイメージした冷前菜。皿は静謐で、無音の料理です。

産地や品種をあまり細かく記しすぎてしまうと、その果実は情報になってしまい、その果実の情緒は、おくゆかしく隠れてしまうような気がしています。雪国の果実は、とりわけ引っ込み思案な気がします。
もし果実から情緒が失われてしまったら、それは、文学性も同時に失ってしまうことになるのかもしれません。文学性が失われてしまったら、その瑞々しさも失ってしまうことになるのかもしれません。
果実は文学です。