往復書歌

文:大塚いちお 題字:河村杏奈

 

破れたハートを売り物に/甲斐バンド

スタートは、きっと、ここからがいいだろう。

窓から川が見える2階の部屋で勉強もせずにラジオに耳を傾けていた中学高校時代、この曲が聞こえると自然にアドレナリンが上がっていった。
もちろん当時はアドレナリンという言葉も知らない。
ラジオから聞こえるその声は、渇ききったスポンジのような僕の体に、頭から知らない世界のあれこれを、シャワーのように浴びせかけた。
ラグビーのルールも、レイモンド・チャンドラーという名の作家も、お酒の呑み方も、後に好きになることのきっかけはすべてここからだった。
録音されたカセットテープは当時も、上京した後も何度もくり返し聴いた。

たしかプライベートルームバージョンと名付けられたこの曲の番組テーマバージョンは、NHKのスタジオのエコーを使って録音されたと聞いた。
あ、この甲斐さんの放送も東京渋谷、NHKのスタジオからだった。
縁あって現在、NHKに仕事で行くことも多く、当時どのスタジオから番組は放送されたんだろうと思うことが時々ある。
その場所も知らないし、行ったところで番組そのものがもう存在しないのだけど、かつてそこで激しく輝いていた星のかけらみたいなものが、まだ落ちているような気がしてしまう。
そこに行っても、おそらく残像すらもないことはわかっているのだけど。

ゆっくりただよう空気のような引力、それに僕は、ひっぱられてきた感覚がある。
その引力にまかせて、すこし薄目を開けて流れる風を感じながら。
自分ではそれなりの努力と意思を持ってきたつもりなのだけど、それはこの曲にただよう流れに似ている。
そう思うと、中学高校時代にかけられた魔法のタネを知ってしまうよりも、もうちょっとこのまま進んでみようか、なんてそんな気になる。
タネを知ることで魔法の力がなくなるとは思わないが、なんとなくこのままその魔法を感じていたい。
「生きることを素晴らしいと思いたい」
なんて言えるそんな気持ちを、もうちょっとだけさまよいながら。