料理歳時記

文:曽根雅典[三軒茶屋nicolas] 絵:佐々木裕


「その目線の先に目をやると、左の乳頭のそばに雲母のようにきらきらと光るものが見えた。英則はその欠片をつまみ、窓からの光にかざした。鉱物ではなく小さな魚の鱗だった。」鰯をおろすとき、窪美澄さんの「晴天の迷いクジラ」の、このシーンを思い出します。 

 鰯は、俳句の歳時記では秋の季語です。鰯は一年中ある魚ですが、旬はやっぱり夏だと思っています。

鰯は手でおろします。鰓から指を入れて頭をもぎ、腹を開いてわたを出し、中骨に沿って指を這わせて開きます。
イタリアの伝統料理に、ユダヤ風と呼ばれるものがあります。ユダヤ風、というのは、蔑称です。あんなものはユダヤ人の食い物だ、という意味でのユダヤ風。
アンチョビにする小さな鰯を、エンダイブという苦い葉の上に重ねて、オーブンで焼いただけの料理があります。Aliciotti con indivia alla  giudea、鰯とエンダイブのユダヤ風。もうこの料理を何年も作り続けています。
ローマのゲットーの隣町が出身だという女性に、この料理を食べてもらったことがあります。彼女は、彼女の連れに「これが私の故郷の料理よ」と伝えていました。
敬意を払うというのとは少し違った伝統、というものもあります。宝物のように、多くの人が時間とお金をかけて残した伝統、とは違うもの。それは、残ってしまった伝統、と言ってもいいのかもしれません。
声高には語られないルーツ、裸になっても、肌に残ってしまっている鱗のようなもの。劣等感を隠す臆病さは、魅力をひけらかさない奥ゆかしさに、少し似ているように思います。